あれから・・・
あれから・・・もう20年になる。専門学校で師となる建築家と出会い、建築の作品世界に没頭し、京都を拠点に活躍されていた高松伸にハマル。
2年の夏休み、京都のとある設計事務所を紹介され、今で言うオープンデスクに通った。その名は「聖拙社」。知る人ぞ知る、で、1年の時にハマった高松さんとは作風も正反対。自分の視野を広めるという単純な気持ちで訪れたものの、大きな衝撃を受ける。
昔の米軍の貯蔵庫を改装した建物は、1階に洋楽のライブ映像を流すバー、同じ2階にはギャラリーや劇団が入っていた。昔の木造校舎を思わす軋む床を歩いて、奥まったガラス戸を開けると、ガッシリとしたスキンヘッドの方が大きな木卓の上で図面を広げていた。その方が、聖拙社を率いる上里義輝氏の片腕、安田勝美氏だった。
事務所には3mを越す釈迦の涅槃像やイオニア式のオーダーなど、至るところに様々なモノが配され、お香が漂う独特の空気感。それまでこの日本で、京都で感じたことなどなかったような空気感。そんな中に身を投じることになる。
無事に面接?をクリアし、翌日に初めて上里氏と対面。また独特の風防と強烈なオーラを醸し出す雰囲気は未だに鮮明に憶えている。まるで自分の周りの空気がどうであろうと、自分が自分の世界を創るのだと言わんばかりの。とにかく全てが新鮮だった。
当時は後に京都における町家の改装のさきがけとなる、祇園NEXUSの現場の真っ最中。初日にいきなり内部店舗の模型を造ることを指示され、1日で造り上げた。ただ我武者羅だった。その姿勢を評価され、思いもしなかった報酬を頂く。当時20歳。その若さで建築を真剣にやっているやつは珍しいと言われた。
現場もよく連れ出された。周りの集まりにもくっついて行った。京都でのオープニングパーティーは、舞妓さんや芸妓さんが場を華やかに盛り立てることが多かった。事務所には当時、京都で映画を撮影していたショーケンも来られた。(自邸を設計したので)毎日いろんな人が訪ねてこられ、いろんな人と出会った。夏の暑い日には、突然山へ行って川の魚を獲って食べたり、とにかくほとんど毎日、アルコールを口にした。それまで一滴も飲めなかった僕は、そこで酒を鍛えられた。
夏休みが終わる頃、卒業制作の課題で一つのプロジェクトを言い渡された。同時に卒業後にと、誘われた。でも卒業制作を進めていくうちに徐々に疎遠になり、学校が始まるとあまり顔を出さなくなっていた。そして最終的には大阪に出る決心をしたのだが、ほんの数ヶ月の日々は未だに強烈に鮮明に身体に刻まれている。
そして今日、8月9日は上里氏の命日。亡くなられてもう9年になる。この日はconfort41の「上里義輝の軌跡 建築集団「聖拙社」を率いて」と題された追悼特集記事を読み返すクセがついた。そこには上里氏の数々の伝説が刻まれている。当時既に伝説だった、一晩でトレペロールに描き込まれたドローイングや、当時握らされた縄文時代の?石も載っている。
結局、自ら建築を始めてからはお会いすることもなく、数年前、5回忌に偲ぶ会で安田氏に呼ばれた。そしてconfortの追悼記事を知った。ほんの数ヶ月しかいなかったにも関わらず、そこには恐れ多くも名前が記されている。そのせいもあって、未だにあの頃、上里氏は、僕に何を見られたのだろう、何を伝えたかったのだろうと、考えることがある。
時たま、背中から、「ソツカちゃん、どんな建築つくってんの?長生きして息の永い建築をつくらないとダメだよ。」と、当時の口癖のように言われている気がする。厚い眼鏡の奥から鋭い眼光を放ちながら。
最近は偲ぶ会もご無沙汰していますが、今夜も「お狩場」で酒を交わしながら、いろんな人がいろんな思いを語り合っておられるであろう、そんな光景が目に浮かぶ。
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